私たちの「洋服」の原型は欧米から生まれた。
現在もファッションの中心地として特に欧州にはシーンで圧倒的な影響力が存在する。
TH_READ(以下スレッド)のデザイナー計良陽介氏は、新潟県の佐渡ヶ島生まれ。
青年期にファッションへのめり込み、シーンのメッカであるフランスのパリで修行を積んだ。欧州での生活でカルチャーショックを体験したのちに帰国し、自らのアイデンティティ=日本の、地方産地が誇る良質なテキスタイルを武器にファッションブランドを立ち上げ、奮闘している。
ファッションへかける情熱と、日本のものづくりへかける情熱。
今後の日本のファッション業界や世界のファッション業界へ切り込みをかける計良氏の半生と、デザイナーとしてのアイデンティティに迫る。
もくじ
- 新潟県佐渡ヶ島の青年がファッションデザイナーになるまで
- 偶然の出会いで現実になったパリ行きの切符
- とりあえずの三ヶ月間、異国パリでの衝撃と再挑戦。
- 本場パリのファッション業界で見てきた日本人の姿
- あの世界的な超一流ファッションデザイナーのもとで、就職が決まる!?
新潟県佐渡ヶ島の青年がファッションデザイナーになるまで
まずは計良さんの青春時代の話からいきましょう。新潟の佐渡ヶ島のご出身ですよね。なぜ当時ファッションデザイナーになるのを志したんですか?
高校時代カッコイイ先輩たちは新潟市まで船に乗って遊びに行ってたんですよ。プラーカ、ラフォーレ、伊勢丹があったり…ヨーロッパブランドのセレクトショップもあったんです。
始まりは周りの環境の影響だったんですね。
結構背伸びしている人は多かったですね(笑)その当時丁度ベルギーデザイナーブーム、ヘルムート・ラングブームがあったりして、僕もマネしてハイブランドを着ていたんです。島では学校からの帰り道に本屋があり、メンノンとかチェックメイトとか、ミスターハイファッションが置いてあったんです。装苑とかもあったかな。
ネット環境がない当時の学生にとっては雑誌の影響は大きいですよね。
ほんと、たったそれだけの影響かもしれないです。中でもミスターハイファッションかな。ラフシモンズがデビューした時代です。未だにこの雑誌は大好きで、後に留学先のパリまで持っていったり、今でも大切にしている雑誌です。
当時って高校生でもみんな服に結構なお金をつぎ込んでいましたよね。
新潟にモードブランドを扱うセレクトショップがいくつかあったけど、やっぱり高校生はお金がないのでラフシモンズとかは手が出なかったですね(笑)
そんな高校生の計良さんが、ファッションの世界へ進むんですね。
高校も3年になって、まわりの進学志向の友達から完全に取り残されたんです。進路どうしよう…なんて考えていたんですよね。で、実は当時から自分の絵にちょっと自信があったんです。そこで美術室の先生に相談して、絵が好きだから美術大学に行きたいと話したんです。ところが、「計良くん本当に残念な話だけど、美大にいっても就職先はほとんどないよ」と言われたんです。
確かに、美術系の大学は未だにそういう状況多いですよね…。
先生には「もし、本当に絵やファッションが好きなら、ファッションの方がこれから先はまだ可能性があるんじゃないか」と言われました。高校3年の時に東京のエスモードに行ったんですが、定員オーバーだと言われ…。すったもんだの末、エスモードの夜間のパターンコースに通うことになったんです。
偶然の出会いで現実になったパリ行きの切符
計良さんが上京したのは2000年ですね。
そうです。そこで面白い出会いが沢山ありました。まずエスモード夜間のクラスメイトに生地屋の跡取りがいたんです。あとは、青山学院大学に在学しながら同じ夜間のパターンコースに通ってる人もいた。この人たちとの出逢いが自分の人生にとっては大きいです。大人の先輩に夜遊びに連れて行ってもらえるという貴重な経験もしました。
当時はバイトしながら生活をしていたんですよね。
はい。東京でバイトするのであれば、青山の骨董通りって勝手に決めてました(笑)そして骨董通りにあるレストランでバイトすることに決まったんです。そこの料理長がたまたまイタリアで修行をした人で、「計良、ファッションをやりたいならまず本場を目指した方がいいよ」ってアドバイスを受けたんです。「シャネルのゴミ拾いでも、エルメスの窓ガラス拭きでも何でもいいのでやれって」言われたんです。
すごい巡り合わせですね。
2000年の今年中に海外にいけと命令されたんです。まず親類がいたアメリカ西部を一人旅してみたら英語も喋れないのにどうにかなって、帰ってきて自信がついたんですよ。アメリカでの経験を通して「あ、パリでも行けるな」と。
それでいよいよパリに向かうんですね。
数十万円の3ヶ月ステイのパリ行きホームステイパッケージを買って、無謀にも行くことにしたんです。出発まではフランス語の専門学校にも行ったし、家でもテレビでフランス語講座を見て、ストイックに語学の勉強をしまくったんです。
すごい(笑)
そしてフランスへ飛び立ち、夜のシャルル・ド・ゴール空港に降り立ったんです。タクシーに乗り込み、市街へ向かいました。すると、ある一瞬から急に「パリ」になるんですよ。おいおい、おとぎ話の世界かよ…って思いました。現実感が全くなかったですね。ちょっと最近まで、佐渡ヶ島にいて、上京したばかりなのに俺いまどこにいるんだろう?と不思議な感覚でした。
夜のパリの空気感にはなかなか衝撃受けますよね(笑)
ほんと。オデオンという駅に着いたのですが、イブサンローランのスモーキングジャケットみたいの着てる人が道端でチューしてたりね(笑)
それからホームステイ先に向かうんですね。
そこからはもう、思い出したくもないくらいの怒涛の日々が続いたんです。
パリでは色んな経験をされたんですよね。
それはもう。パリでも色んな人に出会ったんです。人種差別にもあったこともありました。車から差別用語を言われたり…ビール瓶投げつけられたり……。あとは、語学学校のシンガポール人に「今までの日本人がしてきた歴史を学んで来なかったのか」と急に怒られたりもした。全く意味が分からなかったので、それから日本の歴史の本を買い漁ってすごい勉強したんです。そこで、僕は日本通になった部分もあるんですよ。実はこの経験が、少なからず僕のブランド、スレッドにも繋がる原点かもしれません。
とりあえずの3ヶ月間、異国パリでの衝撃と再挑戦。
パリでの経験は計良さんのトラウマになってるんですかね。
正直初めは辛いことの方が多かったですからね。中でも一番辛かったのが、やはりホームステイ先のおばちゃんとの会話が成り立たなかったこと。紙に書いてもらったりしたけど、全然理解出来ない。辞書がボロボロになるくらいまで調べて、訳して、理解して、寝る毎日でした。
怒涛のパリでの3ヶ月が過ぎて、東京に一度戻って来たんですよね。
いったんは帰国しました。そして今度はエスモードの留学科に入ったんです。この流れでファッションの勉強をしに再びパリに行くことになりました。
さっきの話は3ヶ月。今度のパリ行きは長期ですね。
エスモードが手配した語学学校に入れと学校から言われたけど、日本人と同じ学校に行って勉強するのは嫌だったので、自分で学費を払って寮制の語学学校に通いました。このタイミングでフランス語の語学力が飛躍的に伸びたんです。2回目の渡仏はパリのカルチャーを初めてしっかり体感したと言えます。ダフトパンクが回してたレックスってクラブに行ったりね。仲間とコンビニみたいな店で酒を買って、家の中で音楽をかけ好きに飲んで…パリってそんな風に遊ぶ文化なんですよ。この時にパリの遊び方も学びました(笑)
本場パリのファッション業界で見てきた日本人の姿
パリのファッション業界事情を知りたいです。海外でファッション系の専門に通ってから就職するのは普通の流れなんですか?
いいえ。実はパリは日本みたく沢山はアパレル企業がないんです。なので、就職活動の手法が異なるんですよ。学生は、学生のうちにスタージュっていうインターンみたいな流れでアパレル企業に顔を出し、そこで先輩方に気に入られ、企業の中に潜り込むっていう方法なんです。
おおー。人脈形成がモノを言う世界なんですね。
シャネルでもディオールでも、たまたま採用枠に空きがあったら採るみたいな感じです。だから学生時代の企業研修で色んなブランドにいく必要があったんです。パリコレの3ヶ月前に研修生が募集され、ここでパターンナーや縫製など裏方的な「モデリスト」*や「トワリスト」*の手伝いをするんです。世界中から集った研修生も同じで、まさに雑用ですよね。僕はジャックヘンリー、マーク・ルビアンや、シャロン・ウォコブで働いてました。
※モデリスト・・・洋服のパターンを製図する職業。縫製や生地、工場への指示に至るまで幅広い知識が必要とされる
※トワリスト・・・デザイナーのデザインを元にトワールという生地で立体裁断をして服の原型を作る職業
そういった現場で日本人の扱いはどうだったんですか?
現場で日本人は重宝されてましたよ。デザイン能力も高いし仕事が早いし、気も利くし、何より勤勉。文句も一切言わない人が多いので日本人は人気でした。それに当時は日本人がファッションの現場で尊敬されている一面もありましたしね。日本人は各現場で活躍していたし、色んな日本人が欧米の一流ブランドを影で支えていたんです。だから、僕らもかなり優遇されていました。これもパリに住む日本の先人たちのおかげだと思います。
日本人はファッションの現場でリスペクトされていたんですね。世界中から集まったエスモードの学生の中で、どのくらいの人が実際に就職するんですか?
ほんの数パーセントです。実はフランス人と外国人で税率も差があって、EU人の方が企業にとって安く扱えるんです。だからみんな、正社員として就職するのは難しく、なんとかフリーランスで稼ぐ状況だと思います。それでも稼いだ分の40%近くが税金で持っていかれてしまう。服や雑貨を転売して、なんとか生計を立てる様な人が多かったかもしれないですね。パリコレの裏方の手伝いやったり…。
自国の雇用を守るためとはいえ、外国人にとっては厳しい世界ですね。
そうですね。それでも、僕はこの業界で生きていくのをやめようかななんて思うことは全くなかったですね。
あの世界的な超一流ファッションデザイナーのもとで、就職が決まる!?
パリのエスモード留学科を卒業後、実際に現地のファッションの最前線で働き始めるんですよね。
はい。エスモードを卒業して、元ディオールオムのエディスリマンの元でキャリアを積んだニコラアンドレアタラリスというデザイナーに会うことができました。商品の感覚に一目惚れし、彼の展示会で出逢った日に「一緒に働かせて欲しい」と直談判しました。もちろん即答で断られましたが、その後何度メールしても無視され続けたので直接電話してアポイントを取り、バスティーユのカフェで再会した際には猛烈にプレゼンをしましたね。
すごい。
返答は「Illustratorでデザイン画が書けなきゃダメだよ。」と。そこから1週間ほとんど寝ずにIllustratorのソフトの使い方を猛勉強し、1週間後に再会した際には「ブラボー」と言ってもらい翌日から約1年半の間、ニコラ自身にとっても初めてのアシスタントデザイナーとして、キャリアを積めることになったんです。ニコラはオーストリアの学校でヘルムート・ラングにデザインを学んでいたこともあり、「デザインを完成させるまでの一挙手一投足が全てデザイン」されていて、日々勉強させてもらいました。カナダ人なので日常会話は英語、たまにフランス語を混ぜて会話してくれる…そんな脳をかき混ぜられるような刺激的な毎日でした。
ニコラのアシスタントを2シーズン勤めたあと、「クリスチャン・ディオールで働く」って自分の中で決めたんです。それこそ何回も何回も事務所に手紙を送りました。クリスチャン・ディオールオートクチュールでの面接のチャンスも手に入れましたが、4ヶ月待ちと言われ断念。それでも、フランス語は上達していたし、学校での成績も良かったし、絶対あのあこがれのブランドで働けるって何故か思い込んでましたね。
あきらめない(笑)
ニコラの元で働きながら、ジョン・ガリアーノに手紙を送り続けていました。自分の作品のコピーを入れたりしてね。で、ある時ジョン・ガリアーノのアトリエへ足を運ぶことにしたんです。ところが、パリの会社はどこも入り口の門がオートロックの状態なので、ジョン・ガリアーノの社員が門に入っていく瞬間に一緒に社内に潜り込みました(笑)受付から中に入れなかったんです。「誰かとアポイントがないとデザイナーには会えない」って追い返されました(笑)よく考えれば当たり前のことなんだけど。でもなんとか、デザイナーの名前だけ教えてもらい、また後日電話をかけたんです。そしたら、今度は別の受付の人だったので「このデザイナーと知り合いなんだけど」って嘘をついて電話を繋げてもらいました。
すごい突破力…。
こっからです(笑)トビアスってデザイナーに繋がったんだけど、「お前は誰なんだよ?」といって電話を切られたんです。それでもめげずに平日に再度、事務所に乗り込みました。
スパイですか(笑)そこで先程のデザイナーをとうとう呼び出すことに成功するんですね。
ついに「アポなんてないのに誰なんだ?」ってトビアスが降りてきたんです。そこで事情を説明し、自分の作品を見せてプレゼンしたんです。
うんうんうん…(計良さんの作品集を見るトビアス)
ふむふむふむ…
うんうんうん…(次第にトビアスも納得の表情)
───立ち話すること約2分。
「OK」
来週から来ていいよ、と言われたんです。
すごすぎる(笑)
パスポートのコピーと滞在許可書と作品集を自分宛に送っておいてくれと言われたんです。「よっしゃーー!」と思いましたよ。ところがですよ。よく考えたら自分の滞在許可書に書かれた期日が残りあと1か月だったんです。 即、トビアスに電話して滞在ビザをもらえないか頼みましたが無理でした。これから3か月、フランスでの就労ビザを得るための戦いが始まるんです。
日本に緊急帰国するんですね。
フランスではなく日本のフランス大使館でないともらえない許可なので一度帰ることになりました。ところが、そこでの対応には愕然としました。「あなたにはビザはおりませんとはっきり言われたんです。実は、みんなこのタイミングで同じ目にあっていた様で、ちょうどフランスがシラク大統領からサルコジ大統領へ変わり、政策の変動があったんです。あの手この手を使って、持てる限りの人脈を辿って…。それでも無理で、結局諦めるしかなかったんです…。
きついなー…。人生最大の挫折を味わい、ビザが切れるまで悲しく働いたんですね…。
合計4年住んだパリから日本に正式に帰ってきて、そっから半年は鬱ですよ、もう…。