「前に進むよりしょうがないね」
栃木県日光市で、東照宮の建立とともに400年もの歴史を歩んできた伝統工芸、日光彫。
その3代目の職人さんとして、娘さんとお二人でつつましく、でも情熱を持ってものづくりを行う平野秀子さんは、取材の最後にそう話してくれました。
前に進むしかない、その言葉に裏付けられた決意は、ものづくりの垣根を超えた話に留まらず、日光という場所ならではの苦労も隠されています。
江戸時代より続く日光彫の歴史の中で、初の女性職人として尽力してきた平野秀子さんと、その意志を継ぎこれから新しい時代を築こうとする、その娘の央子さん。
職人母娘へのインタビューは、未来に向けて思わぬ方向に展開していきました。
東照宮の彫刻から生まれた伝統的ものづくり「日光彫」
栃木県は日光市の、重要文化財に指定されている日光東照宮。その象徴とも呼べる陽明門は、彫刻の美しさから、見ていると一日があっという間に過ぎてしまう意味で、「日暮門(ひぐらしもん)」と呼ばれています。
細部にまで施された細やかな彫りの技術は、いきいきとして、まるでパーツの一つひとつに魂が宿っているかのよう。
その素晴らしい彫刻の技術を日常に落とし込んだ伝統工芸が、日光彫です。
光が当たるとなおさら彫刻の立体感に魅せられます
日光東照宮のいたるところに施された見事な彫刻は、江戸時代に全国から集められた腕利きの彫師たちによって作られました。そして、こうした職人の中には、東照宮が完成した後に日光に残った人々も。
彼らが箪笥(たんす)や引き出し、お盆などに彫り物をし、まず余暇を利用してものづくりをはじめたところから、日光彫の歴史はスタートしたと言われています。
日本には、他にも鎌倉彫や軽井沢彫などの「彫り」を活かした伝統工芸が多数あります。その中でも日光彫には、こんな特徴があります。
・日光の社寺に使われているモチーフを主に使用していること
・「ひっかき刀」という彫刻刀を使用していること
・「石目打ち」と呼ばれる技術で、木地を叩き陰影をつけていること
・厚い木地を使い、箪笥や引き出しにも金具を使用しないこと
今の日光にはいなくなってしまった漆塗りの職人さんが手がけた日光彫
上の写真の作品は、伝統的な技術を駆使した昔の日光彫の引き出しです。
日光からほど近い尾瀬(おぜ)に群生する水芭蕉(みずばしょう)をモチーフに、「日光堆朱塗(にっこうついしゅぬり)」という、鮮やかな漆の塗装が施されています。
※日光堆朱塗・・・彫りあがった日光彫の木地に朱漆(しゅうるし)を塗り、その上にカーボンブラックと呼ばれる炭の細かい粉末をふりかけ、さらに下地の朱漆を研ぎ出す技法。より立体的な模様が仕上がります。
まるで遊び心のように、引き出しの取っ手が彫刻の一部になっているのも日光彫ならではの特徴。これを「隠し取っ手」といい、厚い木地を使っているからこそできる技法です。
しかし日光彫は、これらの彫りの技術だけで成り立つ伝統工芸では本来ありません。
日光彫について熱く語る女性職人の秀子さん
秀子さん「日光彫は木地を作る人、それを彫る人、最後に表面に漆を塗る人の3つの分野の職人が協力して作り上げるものでした。それを扱う問屋があって、全国に結婚式の引出物や、プレゼントの品として出回っていました。でも、今はどんどん人が減ってしまって…この家の裏通りには、昔は漆を塗る『塗師屋(ぬしや)』がたくさんあったんですが、今はゼロ。しかたがないので、今は自分たちで漆を塗るようになりました。」
木地は、かつては栃木県の県木である「トチノキ」が使われていました。トチノキは美しい木目が特徴で、昔から多くの人々の日用品に活用されてきたため、今ではほとんど森から姿を消してしまったといいます。
秀子さん「本当は、使ってきた私たちが切った分を植えて育てなければいけなかったんだよね。そうしなかった結果として、今では北海道などから桂(かつら)の木でつくられた木地を仕入れて彫ることしかできなくなってしまいました。日光彫も職人がどんどん減っている状況です。全盛期は日光彫に関わる人々が、日光市内に400人以上もいたんですよ。でも、今は彫師さえも十数人しかいない状態でね。」
「結局だんだん先細りになってしまって、なくなってくんでしょうね。」平野さんはぽつりとおっしゃいました。
しかし、その状況を黙って見過ごしている訳にはいかないのが、平野工芸のスピリットです。
平野さん親子は、以前取材させていただいた『とちぎの技委員会』のメンバー。『U TOCHIGI DESIGN』というブランド名で、県内の職人さんたちとコラボ商品の制作も行っています。
木地の木目を活かした漆を塗らない日光彫は雰囲気もガラリと変わります
上の写真がその『U TOCHIGI DESIGN』の作品の一つ。使う人によって、いろいろな用途に活用できる物入れです。
木地の箱は、同じく栃木県の鹿沼市にある「豊田木工」さんが、鹿沼の組子の技術で、金具を一切使わずに制作しています。
小物の商品にも細かな彫りの技術が抜かりなく施されます
これは、お茶菓子などをのせる銘々皿(めいめいざら)。漆を塗らずに木の質感を活かした「新しい」日光彫は、現代の生活にも馴染みやすく、若い人にも人気です。
400年の歴史の中で、紅一点の女性職人
平野工芸は、秀子さんのおじいさんの代から日光で3代続く彫師の家系。
2代目だったお父さんは、地元の中でも腕の良さがピカイチの職人さんでした。
平野工芸の工房脇にある路地
日光彫の400年の歴史の中で、女性の職人さんは秀子さんが初めてです。
秀子さん「もし自分が継がなかったら、平野工芸は終わってしまう。そうしたら可哀想だと思って、女だったけど継いだの。だってそういう家に生まれちゃったんだものね。」
秀子さんが小学校の頃は、日光彫の全盛期。家業は猫の手も借りたいほど忙しかったそうです。幼かった秀子さんも木地に型をつけたりと、子どもができることをあれこれと手伝っていました。
本格的に家業を継ぐ決意をしたのは、23歳のときでした。
そこから日光彫の技術を少しずつ身につけ、お父さんのもとで、一流の職人への一途をたどりました。
秀子さん「悠々と遊んでいた時期もあったけれど、『これは自分がやらないとまずいな』と思って本格的に家業にもどって来たんです。私たちの時代は技術を教えてもらうなんてことはなくて、親方の技を見て盗む必要がありました。一人前になるまでに、およそ10年はかかりましたよ。日光彫の職人は、みんなそうやって腕を磨いてきたんです。」
こうして育った秀子さん。
そして現在は、その娘さんの央子(ちかこ)さんが平野工芸を次世代へつなごうとしています。
今日は、そんなお二人の技術を少し覗かせてもらえることに。
普段から、こうして並んで作業をしているそうです。
彫りを施すその眼差しは、お二人とも真剣そのもの
央子さんは美術系の大学を卒業してから、東京での生活を経て、約10年前に家業に入りました。東京で何気なく生活しているよりも、実家に戻って、手に職をつけた方がいいのでは?とご自身で思ってのことでした。
日光周辺は、都会に出て行ったきり、帰ってこない人がほとんどです。央子さんの同級生でも、今は数人しかこの日光に残っていません。
日光は観光地という土地柄、おみやげ屋さんや飲食店をはじめとした自営業の家がたくさんあります。それでも、家業を継ぎに戻ってくる子どもたちは少ないのが現状です。
母から子へ引き継がれる平野工芸の伝統技術
母であり師匠でもある秀子さんとともに日光彫と向き合い、現在はお一人で作品作りをすることができるようになった央子さん。
「こんな感じで彫っていくんですよ」
下書きなしでスルスルと木地に花を彫ってくれました。
使っている道具が、引っかき刀(とう)。これが日光彫ならではの道具です。
先端がカギ状になっていて、その名の通り引っかくようにして木地を彫っていきます。
この速さで即興で彫れるなんて信じられない、とびっくり。
ものの数分で、日光彫の代表的なモチーフである牡丹の花が木地に浮かび上がりました。
秀子さん「お盆は1日で50枚くらい彫っちゃうんですよ。そのくらいのスピードで一定の品質のものを作っていけないと、食べていけないもの。それがプロですよ。」
引き出しなどの大きな作品も、一つあたりの制作期間は、図柄を考えてからできあがるまで2週間くらいが相場というから、プロの職人さんの生産性には驚きです。
日光彫りは、
1、型紙を当てて、叩き鑿(たたきのみ)などで木地に下書きの印を付ける
2、細かい部分を彫っていく
3、石目打ちをする
4、漆などで塗装をする
大きく分けてこの4つの工程を経て仕上がります。
下書きの方法は、彫る図柄によってさまざま。
上の写真の桜柄のように、同じ形のものを何枚も重ねる場合は、お手製の型紙を使います。
日光彫がおみやげ品としてたくさん売れていた頃は、木地にワンポイントを施した簡単な商品が主流になっていきました。しかし、平野工芸では、昔の日光彫の良さを残そうと、木地全体に細かく彫りを施していくことを大事にしています。
写真のように桜をモチーフにした総柄を彫るのは、型さえあればできるので、牡丹の花や生き物のモチーフを彫るよりも比較的簡単だと秀子さんは言います。それでも、型紙の桜の大きさや向きを変えたりして、表情に変化をつけるのが平野工芸流です。
また、「石目打ち(いしめうち)」という独自の技法も日光彫の特徴。先端に細かい突起がある専用の道具を木地に打ち付けると、漆を塗った際に彫刻が浮き立つ効果があります。
日光彫の技術は、「彫れるものにならなんでも活かせる」ことが強み。最近では建築関係の会社とコレボレーションをし、扉に日光彫を施したり、木材ではないものを掘ってみたりと、ものづくりの幅を広げています。
どの職人さんも、浮き上がるように彫れるわけではありません
写実的で、浮きたつような彫りの技術は、陰になる部分を深く彫るのがポイントです。とはいえ、彫るモチーフによってコツはそれぞれあるので、長年の職人としての感覚が、商品のクオリティに直結することになります。
いくつもの彫刻刀を駆使して、平面の生地に命が吹き込まれます
平野親子が語る日光という土地が生んだ弊害…?
日光彫の技術に魅せられてから、お話は未来のことに。
「今後の目標や、夢はありますか?」取材の決まり文句です。
秀子さん「ここのところちょっと降下気味なもんだから、ダメなの。」
央子さん「実は2年前、体験学習の講師を行う日光彫職人の仲間の中で、方向性が合わずに、メンバーから抜けてしまったんです。それからと言うもの、調子が上がらず…。」
どこの産地でも耳にする問題ですが、日光彫もまた、職人さんの高齢化に直面しています。
若い人をもっと入れなければ…。伝統をなんとか繋いでいこうと、平野さんは栃木県内の美術系大学の先生にお願いして、日光彫の体験学習の講師を育成する仕組みを整えようとしました。
しかし、先輩職人のみなさんはそれに猛反発。
それなら仕方がないと、平野工芸は組合から籍を外し、個人でやっていく道を選ぶことにしたのです。
秀子さん「若い職人を育てたいと話したら『そのせいで自分たちが食えなくなったらどうするんだ』って。これが本当に悲しくて、情けなくてね。みんな、何十年と日光彫で生計を立ててきた素晴らしい職人さんたちです。若者に盗られるような仕事をしてきた人なんていないはず。でも、『あなたみたいな存在が仲間を混乱させる』って言われてしまって…」
秀子さんは、日光彫の職人の中ではずっと若手でした。そのため、県の事業で日光彫を紹介する際には、フットワークの軽さを買われていつも指名され、出張に飛び回ってきました。それに加え、現地でも彫刻教室などを積極的に行ってきたので、一般の人たちと接する機会が他の職人さんたちよりもたくさんあったのです。
秀子さん「私だけが突出した。と思われてしまっても仕方がなかったのかもしれません。」
でも、今の状況をなんとかしたかった。みんなで協力していけば、もっと日光彫を知ってもらえるかもしれない…。
それでも、日光の人々には、なかなか難しい事情があるのです。
観光地としての地位を確立してきた日光の人々は、『半年寝食い(はんとしねぐい)』と自分たちの生活をあえて皮肉った言い方で表現します。
日光は関東でも寒さの比較的厳しい場所です。毎年11月~5月の連休までは、観光客の数がうんと少なくなるため、日光で商売をしている人たちは半年で1年分のお金を稼がなくてはならず、必死になって繁忙期に働かなくてはなりません。
秀子さん曰く、どの家も自分のことで精一杯だったため、同業の人にお客さんを盗られないよう、競うように働いてきた部分もあり、日光にはその意識がまだ根付いているそう。また、日光にはたくさん観光客が訪れるので、じっとしていてもみんな今まで商売ができていたといいます。
仲間同士で協力しにくい環境だったことと、この土地にいさえすればなんとか商売を続けてこれたことの弊害が、不景気の今になって影響してきている側面もあります。
日光のシンボルの一つでもある神橋(しんきょう)
日光は、内側から新しいコトを起こしにくい場所だともお二人は心配しています。
駅前から日光の社寺に続くメイン道路沿いにも、空き地がどんどん増えてきています。
秀子さん「空き地がたくさんあるんだから、若者がなにか事業にも挑戦できる環境にしないと。外からもっと若い人がきて、どんな商売でもいいからやってもらって、少しでも人が動いてくれればいいなと思うんです。若い人が活動していると、外からそこに人が集まってくるでしょ?」
日光の地元に住む人たちは、古くからのつながりがあって、失敗すれば「なんだあんなものか」と周りに思われることを恐れてしまいます。
何か新しいことを取り入れて、それがうまくいかずに地域での体裁が悪くなると日光にはいられなくなってしまう、だから、周りを気にして何もできない。その結果、今の生活を細々と続けられればいいと考える人が多い現状があるのです。
日光彫を伝える場所を作りたい。
そんな状況であっても、平野工芸は日光彫をもっと多くの人々に伝えていこうとしています。
秀子さん「5年前から、女性職人の企画展で日本橋の三越から声がかかり、それから『平野工芸』として表に出るようになってきました。今はそれがつながって、いろいろな百貨店ともお付き合いさせていただいています。」
央子さん「今の日光彫は、本当にそれを好きな人しか買ってくれません。言い換えれば、高い値段でも『いいモノ』なら売れるんです。私たちも、これに合わせてものづくりをしていかないと。」
秀子さん「そのためには、私たち職人が『本物』の技術でものづくりを続けていかなければなりません。」
央子さん「『そばに置いておきたい』って思ってもらえるものを作っていくことがこれからの課題です。ゴミ箱やティッシュボックスなど日頃の生活に使う小物を日光彫でどう表現するかを模索中です。あとは、ユニークなコラボをして、『こんなもの作ったぜ!』って周りをアッと言わせるような商品も作ってみたいです。」
母であり師匠でもある秀子さんが、挑戦する央子さんを見守ります
平野工芸はご自宅に併設した工房を普段の拠点としていますが、今後は、作品を展示販売する場を作るために、精力的に土地と物件を探している最中です。
そこには、日光彫の素晴らしさをもっと多くの人に知って欲しいという強い想いがあります。
央子さん「百貨店で実演販売などをさせてもらっていると、お客さんに『日光のお店にも行ってみたいわ』と言われることもあるんです。でも、今はこの自宅兼工房しか場所がないので、近いうちに一般の方々にも来ていただけるような場所を作りたくて。」
秀子さん「『とちぎの技委員会』のメンバーにも、いつも言われるんです。『不況と言っても、日光には毎年40万人もの観光客が来るんだから、何かやらなかったらもったいない。それの10分の1の人に興味を持ってもらうだけで、十分な人数じゃないの』って。本当にそうよね。」
海外の観光客の方には、『TOCHIGI』よりも『NIKKO』の方がよく知られた地名だというのは、栃木県の中でもよく言われていることです。
そして、日光という土地で新しいことを始めることがどんなに大変なのかを知っている上で、平野工芸としての意思はひとつの秀子さんの言葉で総括されます。
秀子さん「前に進むよりしょうがないね。」
どんな状況でも、平野工芸の目線はつねに前。
日光の地で始まる、新しい物語
逆境があっても、自分たちの正義を曲げることなく、前に進もうとしている平野さん親子。
地元の現状を正直にお話しいただいて、私たちもその厳しさを知った上での秀子さんの最後の言葉に、取材の現場が引き締まるのを感じました。
「なんで自分ばかりこんな大変な思いをしなきゃいけないんだろう。」
日頃なにかと戦っている人こそ、時にはこんな弱音がむくむく湧き上がってくることもあるのではないでしょうか。大事なのは、そこで「前を向く」選択ができるかどうかだってことを、今回改めて教わったような気がします。
「まだ夢のような話ですが」と、秀子さんと央子さんが話してくれた平野工芸の未来構想は、あれこれ出てきて止まりません。
央子さん「日光という場所をもっと活かさないといけないと思うんです。私たちが拠点を構えて、そこに『とちぎの技委員会』の他のメンバーの商品も並べれば、栃木県中の伝統工芸を外から来た人たちに知ってもらえます。それから、日光彫りにかかわらず、発表の場がなくて困っている職人さんたちに提供できるスペースとして、ギャラリーも併設したいし、日光彫に気軽に興味を持ってもらえるように体験教室も開きたい。あとは、全国からいろんな職人さんを呼んで、ワークショプもしたいです。」
そう話すお二人の力強い姿は不思議な空気をまとっていて、「私たちに何かできることはないだろうか」と、周りの人たちを突き動かす何かを持っているんです。
未来は自分で作るもの。
言葉にしなくても、姿勢でそれを教えてくださった平野さん親子の心意気は、「職人」気質そのものでした。
平野工芸の本当の物語が、これから始動します。