銅を着色する仕事。

日本にはこんな職人の世界も存在します。

考えてみればすごいことです。今までは決して最終消費者との接点を持つことがなかった中間工場が、自らの手で生み出したプロダクトを片手に、その名を日本中に轟かせています。

新勢力の発信場所は「モメンタムファクトリー・Orii」
ものづくりの盛んな北陸富山県の高岡で、三代に渡り高岡銅器の最終門番を務める着色工場です。

この工場の三代目で伝統工芸士の折井宏司さん。

旧態依然とした職人世界へのアンチテーゼともとれる、果敢に攻める高岡新勢力のリーダーの熱きストーリーをお伝えします!

目次

伝統工芸をカッコよく。次はファッション業界に参入してみたい

伝統工芸士でもある折井さんに今後の展望を聞くと、意外な答えが返ってきました。

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こう10年近く自分でやってきて、今はようやく『銅着色』って分野があることが社会に理解されてきた気がします。まあ、まだインテリアや建築業界等の間でですけどね。もっと一般の人に銅着色の世界を知ってもらうために、工場見学の受け入れを増やしたりしたいですね。まずは工場に来てもらうことが大事です。野望は、いつかファッション業界に参入することです。例えばカフスとかなんて金属でも出来ますからね。

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メディアの方にうまく取り上げてもらって、仕掛け方によってはイケると思うんです。もしファッションで流行れば、比較的若い年齢層の中だと思うので、そんな子たちに使ってみたいと思わせることが出来ればすごいことじゃないですか。たったひとつの服に付いていたボタンで、若い子が高岡の事をもっと知ってくれるキッカケになるかもしれないですよね。

ファッションなら他にも、ボタンとか、ベルトとか……百景取材陣とも話が膨らみます。

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何か決定的な商品が生まれて、相乗効果で高岡全体が盛り上がればいいなといつも考えてます。

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高岡の銅器は今となってはインテリアや建築業界には進出出来ていますが、ファッション業界とはこれまで関わりが無かったですから。あくまで野望なんですけどね…

あくまでと言いつつも、すでにモメンタムファクトリーでは、工場オリジナルのユニフォームが存在します。他にもジャケットやTシャツ、手ぬぐいまでがオリジナル。毎年一年に一回、職人さんを含めて工場の全スタッフは、自分のユニフォームの色を選び、実際にそれを着て作業しています。

折井さんのファッションへのこだわりは充分に感じ取れます。

_MG_2774【このジャケットもオリジナルデザイン!折井さんの趣味はアウトドアで倉庫の奥には自前のカヌーも】

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職人が毛玉だらけのズボン履いてたり、汚いカッコしていたら絶対だめ。かっこいい伝統職人の在り方を作っていき、周りの人からの職人に対する見え方も変えて行きたいんです。

取材時も折井さんは居合わせた高岡の若手職人さんにこう、檄を飛ばしていたのが印象に残りました。

日本の銅器と言えば高岡。高岡の歴史をみる

「モメンタムファクトリー・Orii」の前身は高岡で昭和25年創業の折井着色所。ここ富山県の高岡市は400年もの歴史を誇る、銅器製造の日本の一大産地です。折井さんは創業以来の伝統を受け継ぎつつも、現在は新しい銅の着色をメインに様々な事業展開をしています。

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日本中の銅像や仏像の約九割はこの富山県の高岡から出ていっているんですよ。

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9割もですか。高岡にそれほど集中してるとは。

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その昔、京都から技術が流れ、それが金沢に流れ、高岡に伝わり鋳物(いもの)が栄えたと言われています。当時は鍋・鋤・鍬などの鋳物が盛んで、基本的には生活用品を製造していたみたいですよ。その後、江戸の中・後期ごろから、見せるための美術工芸と呼ばれるものが発生して、さらに栄えたようです。

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長い歴史があるんですね。これほど昔から需要の規模があるからこそ、高岡には多くの銅製鋳物の工場があるんですね。

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そうです。高岡の銅器製造の特徴と言えば、なんといっても分業化しているところです。美術銅器や仏具に関しては、問屋さんが日本中をまわって注文受けて、高岡の鋳物屋(いものや)さんに依頼をして製造するものでした。全国に鋳物と言えば南部鉄器もあり、山形にもあり、京都にもあります。でもそれらはシェアが少ないので、製造工程を自社完結するしかないのではないでしょうか。ここ高岡では需要がもっと大きいので、自然と分業化していき、鋳物・型屋(原型)・バリ研磨・色付屋など、多種多様な技術を持つ工場ができたんです。

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分業化の恩恵で、特定の分野での技術の向上がされてきたのが特徴なんですね。

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なので銅着色でも、高岡以外の産地だと色のバリエーションが少ないですよ。

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そうですよね。モメンタムファクトリー・Oriiの前身である折井着色所も、高岡に複数存在する銅器の製造工程の中で『着色』をメインに伝統のタスキをつないできた工場ですよね。

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高岡銅器の中で見ると、この『着色』が銅器製造の一番最後の工程です。なので他の工程でどんどん納期が押して、しわ寄せがくるパターンなんですよ(笑)

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うちを含め当時の下請けの工場たちは、高岡銅器の歴史の流れの中ではどうしても矢面に立てない状態でした。

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確かに産業の構造上、表に出にくいのは仕方がない事だったのかもしれませんね。下請けの場合は他業界でも同じだと思います。そんな銅器製造の商流の中でいま現在、モメンタムは今までにない新しい動きをしているわけですね。

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うちの工場も元々は100%頂く仕事をしてきたんです。これに対し最近では、うちや、能作さん、二上さんなんかは全く新しい動きをしていますね。

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どんな動きをしているのか、後ほど明らかになります。

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戦後から高度経済成長期は日本国内の生活全体が豊かになってきて、高岡でも恩恵を受けています。例えば干支の置物などは一種のステータスとして一般家庭にまで普及し、高岡銅器は当時一世を風靡します。しかしその後は『バブルの崩壊』を経て、1992年から数年遅れて徐々に高岡銅器の需要が落ちてきました。

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折井さんはそんな経済状況の中ポンっと家業に戻った経歴をお持ちですよね。想像しただけで大変そう。まずは三代目にあたる折井さんが家業を継いだ、当時のお話から聞かせて下さい!

華やかな東京を捨て、家業にUターンした折井さんの物語

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小学生の頃から工場にはよく遊びに来ていました。その時の職人さんは4〜5名でパートさんも含めて10名ぐらい。1980年代は置物の記念品とか、会社の記念品で朱肉入れ5万個なんてオーダーの着色依頼もあった記憶があります。地元の高校生達が夏休みに、うちの工場にも何人もアルバイトで来ていた事もありました。小学生だった私も下仕事として薬品に漬けたりしながら、実家を手伝い、小遣い稼ぎをしていました。

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幼いころから職人さんや工場が身近だったんですね。

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その後、就職する時期になると、高岡を出て東京の夜間の大学に通いIT関係の仕事に就きます。知り合いでITの会社を立ち上げた人たちがいて、同郷の富山の人がいたことがきっかけです。そこでキャリアを積み、超大手の会社に出向で行かせてもらったりしていました。

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IT業界もこれからって感じで、勢いがあった時代ですよね。

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そうです。93年の東京サミットの頃にも、この仕事の関連で大きな仕事に取り組ませてもらいました。電話回線を使ってオペレーターが連絡を取り合い、『どこの国の大統領が何時何分にどこどこに着く』なんてことをモニター表示するシステムを担当したり、ね。

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すごいスケールの大きい仕事ですね。

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ですので当然、給料も良くて、その時は何を思ったか『東京っていいなあ』と勘違いしていました(笑)

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いや…普通そうなります。でも、折井さんの中には何かひっかかるものがあったんですか?

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ええ。姉と妹はいるものの長男でしたし、やっぱり家業のことも引っかかっていたのは事実です。おふくろに『そろそろ帰ってきたらどいね?東京は家賃も高いし……』なんてありがちなフレーズで説得されてました(笑)これが24、5歳のころかな。

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その後2000年代に向けて、ネットの世界にもバブルが来だして。いま自分がいる会社やこの業界の一年後はそれこそ天国と地獄みたいな状況になってきてました。そんな中で、自分はこの業界にずっといていいんだろうかと考えてました。

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先が見えない時代なのは、当時のIT業界も変わらないですよね。

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父親の弟(おじさん)が東京の広告代理店の役員でよく相談をしていました。『このまま俺はIT会社でやっていきたい』なんて話をすると、『お前はアホか。俺は次男だからあえて自分がやらないほうがいいと思って東京でやってるんだ。お前は長男だろ。お前がやらないと家業なくなってしまうわいぜ』と言われてましたね。

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折井着色所は初代の頃から、皇居の仕事や長野県の善光寺の仕事をしたり、素晴らしい功績があったんですもんね。

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そう。『お前がやらんとこの家業の誇りも無くなるぞ』って感じでしたね。もっと東京で働きたかったけど、職人になるのには30歳からだと遅いかなと悩んで、1996年の26歳の時に帰って来たんです。

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ここから職人、折井宏司の始まりですね。

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東京から高岡に帰ってきた時には、工場が大変な状況になっていました。1995年くらいまでは工場も何とか忙しかったんですが、父が継いで40年の人生で初めて、社員に給料は払えるけど、自分は給料無し、なんて事があったみたいです。折井着色所が商売を始めて以来でもこれは初めてで、大赤字に転落していたんです。

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ピーク時の売上の4割減とか半分に落ち込んで。ヤバイなーと思いました。でも、工場には仕事はないし、自分にはまだ腕もない。暇をもて余していました。こんな状況なので仕事が18時に終われば、友達と一緒に毎日飲みに行ってました(笑)

なんでも、当時は職人さんの間でも、すぐ家業継ぐ人やUターンで戻る人、また出て行く人など、出入りが結構多くて、さらに家長が「俺の代でこの家業はやめよう」と仕事自体をやめてしまうこともあり、徐々に工場も職人さんも高岡の街から減って行ったと言います。
折井さんの心の中でも、また東京に戻ろうかなんて気持ちが全くないわけではなかった様です。

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それでも、折井着色所は着色屋では高岡でも老舗でしたからね。そんな折井んところのバカ息子が、ふらふらしてぷーたらやって、東京に逃げて帰ったかと言われるのがすごい嫌でしたね。

この折井さんのプライドが工場を次の時代に繋ぐ着火剤になります。


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大滝 洋之

Brightlogg,Inc.代表
歴史と伝統に敬意をはらい、ものづくりを現代の価値観で再解釈し、未来に繋げることを目指す。都内を中心に全国を巡りセコリ百景を運営する。http://www.brightlogg.com/