益子の民家の脇道をスルスル抜けて小高い丘を登っていくと、視界の開けた先に、黄色や赤色の花を携え、一面にひろがる綿のじゅうたんが姿をあらわします。
この畑は栃木県の重要文化財日下田藍染工房の日下田正さんが自ら作り上げた織物、益子木綿(ましこもめん)の源泉にあたる場所。
時代の変化で急速に衰退する藍染めの技術を残すために、益子で220年の歴史を持つ藍染工房の9代目にあたる日下田さんが「藍染め+α」の価値を与えようと、打ち出したのが「昔ながらの藍染め×織りの融合=益子木綿」でした。
目まぐるしく移り変わる現代。その流れの中で、手間ひまかけて大切に育てられた綿をつみ、丁寧に紡がれた織物で手仕事のものづくりを伝える、栃木県の益子木綿(ましこもめん)のお話です。
日下田藍染工房と柳悦孝(やなぎよしたか)先生の出会い
───昭和の時代の栃木県益子町。
陶器で有名なこの益子の街には、今はなき映画館がありました。
「映画館は街の社交場としても機能していていました。私の少年時代はそこに足繁く通っていたんですよ」と当時を振り返る日下田さん。
当時18歳の日下田さんは、まだ自分の進路に悩む、どこにでもいる様な映画好きの学生でした。
転機が訪れたのは、ある夏の日のこと。
まだ誰もいない夜明け前の日下田藍染工房。
その甕場(かめば)に朝日が差し込み、先祖代々220年使われ続けた甕が日の光に神々しく照らされる光景を目の当たりにします。
「その光景は、普通ではないように見えました───」
当時を振り返る日下田さん。その光景を見た時に「これが自分の仕事なんだ。紺屋を継ごう」と決意をしたと言います。
この日から、日下田さんは益子の藍染めの伝統を背負うことになります。
その時すでに藍染めは衰退産業ともいえるもの。
「藍染めは明治までの職業」なんて話す父親の言葉をかんがみると、このまま普通の形で家業を継いだだけでは厳しいのではと日下田さんは考えたといいます。
その後、染織家である柳悦孝(やなぎよしたか)先生の元へ弟子入りを決意します。
※柳悦孝・・・民芸運動を起こした柳宗悦(やなぎむねよし)の甥にあたる。1975年~83年の間、女子美術大学の学長も勤めた。
日下田さんはこの柳先生のもとで4年間、染織の技術に加え、仕事や芸術、そして何よりも学び、考える姿勢を養います。
当時の教えはかなり厳しいものでした。
こんなエピソードもあります。
「ある時、柳先生の元で電話番をいたしました。電話が鳴り、出てみると、『御機嫌よう』なんて言葉が受話器の向こうから聞こえてきます。今までに聞いた事もない様な丁寧な言葉使いに、当時はかなり戸惑いましたよ。」
日下田さんはこの4年の間で、イギリス人陶芸家のバーナード・リーチさんの他、「日本の道具は、焼きものでも木工でも、人間の愛情を必要とする。人とのつき合いによって育つといってもいいが、大事にしまっておくだけでは何の役にも立たない。」など現代を生きる私たちにとっても印象深い数々の名言を残した随筆家の白洲正子さんなど、柳先生の幅広い人脈により、そうそうたる顔ぶれの人々と対面する機会に恵まれます。
手紡ぎの伝統を未来に繋ぐ、益子木綿の創始者
こうしてあらゆる叡智と技術を習得していった日下田さん。
いよいよその技術を活かし、益子木綿をスタートさせます。
「益子は、木綿の生産が盛んな真岡(もおか)市の隣に位置しているんです。江戸時代に日本一の白木綿として知られた、真岡木綿(もうかもめん)の名前は、とてもではないけれど、恐れ多くて使えません。そこで、私が考えた、織りと染色を『益子木綿』と表して世に発信していくことにしたんです。私が始めた時期=歴史のスタートなので、もう益子木綿の歴史も50年になります。」
木綿(もめん)とは一体なんだかをご存知ですか?
今では木綿=コットンのことです。つまり、植物の種子の周りから採ったものです。
国内において木綿は室町時代に作られるようになったとも言われています。国外ではインドで7000年前から木綿の存在が確認されていました。そもそも、木綿の原料である綿花は日本にはありませんでした。日本では木綿が一般層に普及するまでの江戸時代(約400年前)までは麻布が衣類の中心。そんな中でさっそうと庶民の間に登場した木綿は、保温性や柔軟性も高く、当時は画期的な出来事だったと言い伝えられます。
益子のとなり街、真岡(もうか)では、江戸時代に年間で38万反(一反は約50M)もの木綿の生産量を誇った国内の一大産地。
それも、戦後(昭和)になると輸入の綿糸に押され、真岡木綿の生産はほとんど無くなっていったそうです。
「良いものをただ追求したい。」そんな想いがあった日下田さんは、当時から保存されていた真岡木綿の種や、茶綿の種を譲り受け、綿花を栽培し、益子木綿が始まりました。
益子木綿の畑を特別に案内して頂きました。
「今年は豊作なんですよ。しかし、畑は管理が本当に大変なので、若い人の力を借りる事が出来ればなあ、なんて思っているんです。」
日下田さんはこの畑で、和棉と洋綿を合わせ複数の種類の綿花を栽培しています。
【茶色の綿。この絶妙な色あいを染色で表現することは難しいといいます】
手塩にかけて育てた綿を日下田さんが自ら染め上げます。
四季折々の草木で染めあげた綿を、パレットで絵の具を混ぜるように混ぜ合わせて、独自の糸を紡いでいきます。
紡ぐ(つむぐ)のも、糸車を使って全て手作業で行うのが益子木綿。
こうして紡ぎ上げた糸を、イギリス発祥のホームスパンをヒントにし、ゆっくりと手織り機で粗く織っていきます。
※ホームスパン・・・手紡ぎの太い糸で粗く織った平織または綾織の織物。「家庭で紡いだ糸」が由来。
「自分でも、どこまで織ったか分からなくなってしまうくらい、複雑な織りをすることもあるんですよ。」
ホームスパンは羊毛で繊維自体が長いため、織る事に関しては比較的容易です。それに比べて、繊維自体が短い益子木綿で使う和棉では、技術が必要になってくると日下田さんは話します。
綿(わた)から育て、草木で染め、ゆっくり糸を紡ぎ、手作業でじっくりと織り成す。
ゆっくりとした時の流れの中でできあがるのがこの益子木綿です。
教鞭をとることでさらに価値が拡がっていく
益子木綿の生みの親である日下田さんは、栃木県内の高校でも織物の授業を担当し、服飾デザイン科の3年生に指導をしています。
「始めは1年間だけという話だったのですが、もう気づけば20年近くになりますね。一緒に染めたり、糸紡ぎもするんですよ。糸紡ぎだって簡単なことではないので、授業は結構大変なんです。」
高校生のうちから無形文化財でもある日下田さんに授業をしてもらえるなんて、とても贅沢な体験です。
教材は、できる限り本物に触れてほしいという理由で、染料の原料・生地など実物が貼られた手作りの教材を使っています。この教材は僕たちもお借りすることができました。ネットで調べるよりも、実際に触れて、質感や立体的に感じることで理解がとても深まります。資料では貴重な布地などもサンプル教材に利用しているため、20年間でサンプルに使う布も結構減ってしまったんだとか…。
それでも日下田さんは出来る限り若いうちから本物に触れてほしいという想いでサンプル付きの教材を学生全員に配布します。
「若い方に教えるのはとても楽しいんです」
教えた生徒さんが必ずしも染織りの道に進む訳ではありませんが、教え子の中にはニューヨークの織物会社に勤め、その仕事がファッションデザイナーのアナスイ氏の目にとまり、ショーに使われた方もいるそうです。日下田さんの影響力の高さをうかがい知れます。
「ファッションデザイナーへの道も簡単ではありません。でも、中にはねばり強く頑張って、頭角を現してきた子もいます。素晴らしいですよね。」
藍染めの美しさを後世に残したい、代々受け継がれてきた工房を守りたい、日下田さんがそんな想いで始めたたくさんの取り組みが、新しい未来を創り出しています。
現在でも「藍染がやりたい!」と、日下田藍染工房に飛び込んでくる若い人は少なくなありません。
「それでも、自分の工房の力だけでは興味を持って来てくれる人たちを支えきれません。小さな工房ですから。何か公の力があればまた違うのかも知れませんね…。」
伝統である藍染めの新しい打ち出し方や、つくり手とつかい手との接点の生み出し方。
益子木綿の魅力を伝える方法。
僕たちは、未来に残したい想いや、技術の引継ぎ方。時代の流れを打開していくアイディアを、いま一度考えるべき段階に来ています。
220年の伝統を誇る日下田藍染工房の記事はこちらです。