新潟県三条市。古くから鍛冶職人が多く集まり、今もなお技を磨き続ける人がいます。職人の仕事は無限であり、一生の仕事を貫くことこそが、生きる道。

現在では、金属製品を中心とした製造業を基盤に工業都市として発展した三条ですが、その背景には伝統ある鍛冶技術が基礎としてありました。

この地に根ざし、親子二代で大工道具の鑿(のみ)*を中心に作っているのは「鑿鍛冶田齋(のみかじたさい)」の田齋明夫さんと息子の道生さん。お二人が手がける道具は、昔ながらの方法と独自の技で一丁一丁を手で作る。1日に数点しかできないことから、数ヶ月先まで予約で埋まっていると言います。

今回は「どれだけ待ってでも欲しい!」とつかい手たちから、自ずと期待の声があがる鑿鍛冶田齋の魅力に迫ります。

※鑿(のみ)…木材同士を組み合わせる際に必要な、凸と凹を彫るための刃物であり木工用の工具。刃の付いた金属部分のうち、先端の太くなっている部分を「穂(穂先)」、柄とつながり細くなっている部分を「首」という

もくじ

鍛冶屋になるまでの父の生い立ちと、懐かしき修業時代

父の明夫さんは、現在77歳。12歳から鍛冶職人の下に住み込みで弟子に入り、修行期間を経て職人として認められたのは22歳の時。「徒弟制度がまだわずかに残る時代の話です」と、当時に思いを馳せるように語ってくれました。その後も、たゆまぬ努力を続けて36歳で独立したのだそう。

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まずは、明夫さんの修業時代のことをもう少し聞いてみたくなりました。

鑿鍛冶田齋は、私が工匠用鑿を中心に作り、息子が鑿のほかに、鉋やナイフなどを手がけています。鑿と言っても、1種類という訳ではなく様々な用途に合わせて作ってきました。私の修業時代のはじまりは、小学校を卒業した年の秋のことでした。遊んで家に帰ってきたら母が荷物を用意していて、そのまま親方の元へ歩いて行きました。親方の家は、実家から1キロほど離れたところにありました。

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これまでの生活から一変して、弟子入りすることになった時は、どんな気持ちでしたか?

なんだか旅行に行くような気持ちでした。親方が言うには、奉公初日は緊張しまくっていたようです(笑)弟子の間は住み込みですし、お小遣い程度しか給料は出ません。そこから20歳まで奉公をし、その後1年間無料奉公をして、職人として食べていけるだけの給料を正式にもらえるようになりました。

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なるほど。12歳から21歳までの弟子入り時代の中で一番心に残っていることはありますか?

一番嬉しかったのは、「やぶいり」と言って、年に2回ほど親元に帰ることができる時期でしたね。特に、奉公に出てから最初の年に母が作ってくれた稲荷すしの味は忘れることができません。

田齋さん親子の作る鑿。精巧な作りに、美しさすら感じます

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燕三条周辺の地域では、弟子入りは、当時はよくあったことなのでしょうか?

戦前まではよくあったようですが、私の時代には弟子に入ってまで仕事を覚えるような風習はなくなりかけていました。今になって思えば、うちの親は手に職をつけさせたかったのでしょうね。

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そうだったのですね。田齋さんが現在のように独立するまでには、どのような経緯が?

独立は、ある日突然に決まったんです。親方と碁を打ちながら「今年の目標はなんだ」と聞かれたんです。私が、2〜3年で独立しようかと思うことを伝えると「独立したい気持ちがあるなら、今にしろ」と。そこで、資金はありませんでしたが、道具を揃えて、奥さんの実家の板場を借りて急きょ独立することになったんです。

修行時代と変わらず、鑿の表面に明夫さんが手作業で磨きをかけるのが田齋流

三条の知られざる鑿鍛冶屋事情と、田齋さんの独自性

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当時は、この辺りに鍛冶屋さんはたくさんあったのでしょうか?

鑿だけの鍛冶屋だと、当時は50軒はあったと思います。鉋(かんな)鍛冶30軒、鋏(はさみ)鍛冶50軒など、相当数の鍛冶屋が集まっていたんじゃないでしょうか。それぞれの町内に2〜3軒は並んでいるような感じでした。

三条自体が、大工道具の産地的な位置づけでしたからね。大工道具の産地というと、東京と、新潟県の三条市と与板町、兵庫県三木市などです。例えば三条は、墨つぼ、曲金、玄能などのシェアを80%持っていたと言われています。

息子の道生さん

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現在は、その頃に比べてどうなったのでしょうか?

鍛冶屋全体で見ると全盛期から見ても1割から2割くらいになっていると思います。

三条にある鑿鍛冶屋は、あと6軒しか残っていません。

入り口には、「工場の祭典」のポスターが

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明夫さんが独立された頃にお話を戻します。収入が安定するまでは不安もあったと思います。独立後のお仕事は、どのように始められたのでしょうか?

借りていた奥さんの実家の板場は、六畳二間。まずは、当時三条の市内にあった問屋さん400〜500軒の内の150軒を回りました。

鑿作りは、普通は分業制で、一人の職人が担う工程は限られていました。親父は、それを一人で完成品の状態までにして問屋さんを回ったそうです。もともと問屋さんに卸す鑿は刃だけで、柄はついておらず、分けて販売されていたんです。完成品は売られていなかったんですね。三条の土地で、初めて柄を入れて売り出したのが親父だったので、面白がられたのだと思います。

すぐに使える状態で問屋さんに納品する、田齋さんの商品

奉公時代に、親方が作る全ての鑿の工程を覚えていたのも、大きいかもしれません。滅多には新規の職人から鑿を仕入れないお店からも、「完成品にして入れてもらえるなら買うよ」と声をかけてもらいました。

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田齋さんたちが作る鑿は、日本の文化財などの修復に携わる宮大工さんからも「ぜひ一度使いたい!」という声が多いとお聞きしています。それほどの知名度や評判に辿り着くまでには、どのくらいの時間がかかったのでしょう?

実際にかかったのは6年くらいでしょうか。ちょうどタイミングが良かったんです。業界の中でも、今までの鑿の売り方を変える時期がきたというか。鑿鍛冶田齋の「売り方の面白さ」が、問屋さんからの目を引いたようでした。

売り方を考える、新しい提案のかたち

鑿とひとことで言っても、形はさまざまです

柄がすでについている鑿は、問屋さんが小売店に勧めやすかったんです。そして、実際に使ってくれた大工さんに認められたことが今につながっています。息子と二人で、自分たちでも足を運んで商品の紹介に行きました。小売店に行って、直接的にいろいろな商品を紹介して回りました。

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それは、飛び込み営業のような感じなのですか?

最初はそうでしたけれど、認知されるようになってからは、「うちにも来て欲しい」と小売屋さんの方から声がかかるようになりました。

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実際にお客様のところまで直接足を運びながらも、間に問屋さんを挟むという考えは変わらなかったのでしょうか?

個人での取り引きだけでは裾野が広がりません。私たちだけでは限られたお客様にしか届きませんよね。小売店に伺って実際にウチの商品を欲しいと言っていただいたときも、自分たちが普段からお世話になっている問屋さんを紹介しました。直接売ることはしないで、間に問屋さんを入れることは大切にしてきました。

全国の大工さんをファンに持ち、一つひとつ細かなオーダーにも応じます

実際のところ,小売屋さんとの接点は鍛冶屋はほとんどないんです。しかし、商品の紹介に伺うことで、お客様の声も聞けます。そこで自分たちで見つけたお客様を問屋さんに紹介することで、問屋さんとのつながりも深くなるし、信頼関係もできますよね。あと、僕も日本各地に足を運ぶことができてよかったです(笑)神奈川県から大阪まで、交通手段は車で各所に行きました。

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今も、実際に小売店に伺う動きは続けているのですか?

最近は、そういうことは少なくなりましたが、6〜7年は続けていました。そのかいあって、今は口コミで広がっているようです。小売屋さんも問屋さんも信頼して買ってくれているので、それにしっかり応えないと。

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三条でも、ファクトリーブランドや個人で売る活動をしている人が増えてきましたけれど、どう見ていますか?

良いと思いますよ。ただ、僕たちは作るのが主体であって、売るのは主体ではないと考えています。なので、できることは何でも協力しますよという気持ちでやってきました。小売屋さんも問屋さんも商売していますから、そういうところで共存していきたいというのが、私たちの考えですね。

最初は反対した、息子の鍛冶屋への道

道生さんの手によって、あっという間に金属の塊が鑿の形へとできあがっていきます

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道生さんは、何をきっかけにこの世界に入られたのですか?

小学校の高学年くらいまでは、自宅と鍛冶場が離れていたので、父の働く姿を直接見たことがありませんでした。今思えば、朝早くから夜帰ってくるまで父は家には居ませんでしたが、楽しそうに働いているなという感じがしていました(笑)

初めは、息子が鍛冶屋になることに反対だったんです。自分は、何十年もやってこれしか無かった。でも、息子は違う道でもいいのかなと思っていました。

最初はそんな反対の声もありましたけれど、ひとまず職業訓練校の鍛造科に通いました。昔の職人たちが身体で覚えていた冶金*の知識などを専門的に学べたことが、今の強みになっていると思います。

※冶金(やきん)…鉱石などの原料から金属を採取し、精製・加工して、合金や金属の材料を作り出すこと。

 

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そうだったのですね。この工房は、今は何名でやられているのですか?

今は3人です。僕には弟がいるので、家族でやっています。鍛冶のなかでも、鑿がつくれる職人は器用だと言われます。鑿ができると、包丁や鉈など、いろいろなものが作れるんです。他の道具に比べて、さまざまな技術が必要なんです。それがうちの強みですね。鑿鍛冶は鉋(かんな)も作ることができます。

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道生さんは刀も作れるとお聞きしました。こちらは、どうして始められたのですか?

はい。最初は、玉鋼(たまはがね)を知りたくて刀鍛冶に弟子入りしたんです。玉鋼は本来、普通の刃物には向かない素材です。基本的には、玉鋼に触れられるのは刀鍛冶だけだったんです。

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素材に対する探究心が、幅広い技術の習得につながっているのですね。道生さんのものづくりへの想いを感じます。

日本刀の原料に使われる玉鋼*

※玉鋼…主に日本刀の材料となるもの。砂鉄を原料にして、「たたら吹き」という特殊な製法で作られる。

日本の伝統は、道具を通じて残り、世界に届く

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いろんなものを作られていると思いますが、どんなことを大切にしていますか?

使う人の希望や要望に添うことですね。そのためには、息子のものであっても言うときは言います。時には、口論もしますよ(笑)

仕事が終わってご飯を食べながら、お酒が入ると確かに口論になることもありますね。でも、次の日はケロッと忘れてしまうんです(笑)

一晩経つと冷静になって、息子の言うことも一理あるなとも思うんですよね。ただ、使う人のことを第一に考えるので、場合によっては最初からやり直すことだってあります。そういう鍛冶屋も少ないと思うんだけど、職人としての自分の色を決めていないことが、逆にこだわりなんです。

切れ味とか妥協はしませんが、形や厚みなどはお客さんの要望に応えます。「田齋に持っていけば、どうにかしてくれる」という思いを抱いてくださっているので。

熱した金属を回しながら、リズムよく叩いていきます

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以前と比べて注文数はどうでしょうか?

注文数は落ちていますが、その分こだわっている人が増えています。手間をかけて作る単価の高い商品が増えているので、売り上げは変わりません。うちは、30年くらい海外の方とのやりとりがあるんです。アメリカやヨーロッパを中心に、大工さんや楽器職人、家具職人など様々な職種の方がお客様にいらっしゃいますね。昔は違ったようですが、海外の鑿鍛冶も日本で技術を習った人が増えてきているようで、海外の職人たちも日本の道具を使うようになりました。ドイツのカタログにも、日本の道具があるほどです。

職人の技に終わりはない、一生かけて頑張ること

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お二人が考える良い鑿の条件はありますか?

良い鑿の条件は、切れるのは当然で、値段が手頃であること、形が整って左右対象であることです。

理想の90〜95%ぐらいのものを作らないといけないと思っています。妥協点がそこですね。大体同じものができるから、出来が良いものほど早く世に出して、早く人に見てもらいたいです。出来の悪いものは出したくないと思っています。

自分の名前を出すということは、信用を出すということだから。弟子入りした頃は、自分の名前を打つことはなかったので少し楽な気持ちもありました。今では、名前を打っていないものでも「これは、田齋さんの品ですよね?」と声をかけてもらうことすらもあります。

お互いを信頼しあっている様子が滲み出ているようなお二人

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お二人は親子ですけれど、師弟関係っぽくないですね。どのように関係性を育まれてきたのでしょう?

私たちは、職人は一代で終ると思ってやっています。何代目とかではないんです。鍛冶で作る道具も、時代時代に合ったものが出てくると思います。あくまでも、田齋の考えであり、やり方も然り。私を育てた親方は厳しかった。場合によっては叩かれるという行為があったけれど、理由が無く叩かれるのは萎縮させることになる。教育の面でも、息子のことは自分のエゴで厳しいのではなくできる限り常識的な人間に育てることを大事にしてきました。

僕もそんな親父を信頼しているところは大きいですね。田齋は、鑿鍛冶としてはこの辺の地域では最後に独立した鍛冶屋なんです。親父がここまで新しいことをして来ているわけだから、僕もそのままを継ぐのではなく、道さえ外れなければ新しいことをしても良いと思っています。刀や玄能は、今つくれる職人が随分減っています。そのせいで道具がなくなってきているので、真摯にものづくりをする人たちに道具を作って提供していきたい。これから先、鑿が爆発的に売れることは無いと思うんですよ。だからここからは、横に広げていきます。

技に終わりはないですよね。「私は鑿を作るために生まれてきたんだ。これは天職だ」と思っていても、一流の職人を目指すのには一生かかる。一生頑張るしかないと思っています。

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お二人の話から、お互いに信頼しているという感じが伝わってきました。自分を飾らず、技に驕ることもなく、ひたすらに使う人のことを考えて鑿の領域を広げ、鍛冶職人の道を進み続けてきた田齋さん。これから先、生みだされた道具を通じて、その希有な考えも残り続けると感じました。

工房内には、鍛冶に使う道具類がずらりと並びます

仕事をつくること。それは、生き方をつくることに直結するのかもしれない。

田齋さんのお話から、鑿鍛冶や鍛冶職人の仕事のこれまでと今が、鮮明に浮かび上がってきました。今回の取材を通じて印象に残ったのは、ものづくりの背景にある、想いの伝え方と生き方そのもの。

職人というと、作るまでが仕事と捉えることもできるかもしれませんが、田齋さん達は信頼できる中間業者に流通を委ねながらも、人任せにしない売り方を考えました。

一丁一丁手がけてきた道具を、作るだけなく、どう売り広めていくかまでを考えたこと。そして、自ら小売店に足を運んで商品の魅力を伝え、問屋さんに売ってもらうことを選びました。

その根底にあったのは、個人で売ると裾野が広がらないことや、まだ知らないでいる人達に届けたい想い。様々な考え方や売り方がある今、自分の仕事に合った方法を選ぶだけでなく、作り出していくことの大切さがあるのではないでしょうか。

長い修行時代を経て、今もなお良い物を作るべく技を磨き続け「一生の仕事」と話した明夫さん。仕事をつくることは、生き方そのものをつくることなのかもしれません。


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藤本あや
藤本 あや

インタビュアー、編集者
広告、PR、ITなどの業界を経て、2013年フリーランスへ。 きく・話す・書く・つくる・伝える仕事に携わる。興味と関心は、日常の延長線上にあること。衣食住と人。 地域に根ざして暮らし、その土地に身を置いて働く人など、 いろいろな地域でインタビューと対話を重ね続けている。