真っ暗な長いトンネルをくぐりながら、ふと心細くなった経験はありませんか?

ひょっとしたら、このままずっと暗闇から抜け出せないかもしれない。
そんな時に、ぽつんと出口が見えた時の安心感と言ったら。

東京都世田谷区に工房を構える竹工家の初田徹さんは、竹工芸の道を選んでからの長い間、「出口の見えないトンネル」を走り続けるような時を過ごしたといいます。

「暗いトンネルでも安心して走れるのは、その先に、光に満ちた出口が必ずあると信じられるからです。でも長い間、闇の中にいた自分には仕事や人生の出口を想像することができず、かといって入口へ戻る道もすでになかった。まさに、暗黒の道のりでした。」

それが、今では日本のみならず、海を越えてオーストラリアの美術館にまで作品が展示される程、竹工芸の技術を得た初田さん。

職人や作家の世界に限らず、やりたいことに一歩踏み出せないでいる人、頑張っても結果が見えずに行き詰まっている人にも届いてほしい、竹工家の「TOKYOものづくり奮闘記」のページがここでめくられます。

 

きっかけは流しそうめん。一人の大学生の人生を変えた「運命の出逢い」

 

「気分を変えて、夕方に取材にいらっしゃるのはどうですか?」

そう提案してくださったのは、初田さんの方でした。
何故、あえて暗くなる時間を…?

小さな疑問を抱きながら工房にお邪魔すると、その意図がわかったような気がしました。

 

部屋の明かりを落とし筒状の竹籠の中に電球を仕込むと、繊細な陰が辺りに広がります

 

光に照らされた、映す影すら美しい、初田さんの作品。
これほどまでに精巧な竹工芸の技術を身に付けるのには、並大抵の努力や経験では及びません。

「明治から昭和の戦前にかけての近代は、竹工芸が爛熟した時代でした。煎茶や抹茶の茶道具など、江戸以前からの細密な工芸技術から派生し、美術としての鑑賞に耐えうる器物として特別に制作した銘品を、今日では竹工芸と呼び、欧米や日本の愛好家の間では美術品として取引されています。かつて籠師や竹工家などと呼ばれた人々が腕を競っていた、竹工芸の歴史を意識しながら、現代の作家として竹工芸の作品や茶の道具、工芸技術を応用した日用品づくりなどを仕事にしています。」

細く割いた竹を上の写真のように編んだり組み合わせたりすることで、籠や物入れ、茶の湯の道具などに仕上げます。

また、竹工芸の歴史とは別に、竹でできた雑貨類は日用品として庶民の生活必需品であったため、日本各地に文化が残っています。

初田さんが生まれ育った東京都世田谷区も例外ではありません。

 

竹を細く割いた竹工芸の素材。筒状の太い竹をこの状態にするのも大事な仕事です

 

「竹工芸の道へは、選んだというよりも、導かれたような気がしています。」

自身がそう語るのもそのはず。
初田さんと竹工芸との出逢いは、意外なタイミングで訪れました。

「僕は4年制大学の社会学部に通う、ごく普通の大学生でした。しかしある時、友人と流しそうめんを計画することになって、そうめんを流すのにちょうどいい竹を調達する手を考えていたんです。そこでふと、『そういえば、家の近くに竹の籠を扱うお店があったな』と。」

初田青年の記憶の片隅にあった「竹を取り扱うお店」こそ、後の師匠となる竹工芸家が営む店でした。

 

 

「結局、流しそうめん用の竹は手に入らなかったのですが(笑)想像よりも繊細だった竹籠に妙に惹かれて。それからはときどきお店に足を運ぶようになり、小さな物をいくつか買ったりしていました。」

こうして、ひょんなきっかけから竹や籠の世界に興味を持ち始めた初田青年に、さらなるチャンスが訪れます。

「ある日、いつものようにお店に立ち寄ると、普段は姿を現さないご主人がいらしたんです。その時はお正月明けで、まだ時間の流れがゆったりしており『きみ、よく来るらしいじゃない。もっと作品を見ていくかい?』と声をかけてもらいました。そして、特別に見せてくださったのが、普段は店頭に出ていない精巧な竹工芸の作品だったんです。それまでに自分が見知っていた一般的な籠との歴然とした違いに驚いて、素直に『これはすごい!!』と感動してしまいました。」

竹工芸に出会ったことで、初田さんの竹への想いが、「なんとなく良い」から、確信的な「好き」へと変化した瞬間でした。

「あのとき、感動すると当時に、自分に向いているだろうとなぜか直感したんです。恐ろしいことに。」

ちょうど、大学4年生を前にして休学中だった初田さん。復学したらすぐに就職活動が控える状況で、これからの生き方を見つけようとしていた彼にとって、この出来事が大きな転機に繋がったのは言うまでもありません。

 

企業に就職する友人たちとは違う「下積み」の道へ

 

 

周囲が就職活動に必死になっている大学4年生の春のこと、ついに、初田さんは心して将来の師の元を訪ねます。

「将来の仕事にしたいと考えています。わたしに竹工芸の技を教えていただけませんか?」

ストレートにお願いしたこの時期こそ、実は奇跡的なタイミングだったのです。

「普段は弟子を取ったりはしないそうなのですが、僕がお願いしたのはちょうど、僕と同い年の跡取りとなるべき息子さんが竹の道に進もうとしていた時期だったんです。そのこともプラスに作用したのか、特別に5月から通って教えていただけることになりました。運が良いですよね。」

約束された未来であったかのように、初田さんの竹工家への道はどんどん拓かれていきます。

まずは大学に通いながら修練を始め、卒業後はさらに本格的にものづくりに専念するために、実家を出て古い民家を借りて暮らしはじめました。

しかし、ご自身でも「ごく一般的な大学生」だったと話す初田さんです。家族や友人からの反対もあったのでは…?

 

 

「会社員や公務員としての就職を目指すのがほとんどの同級生にとって当たり前の進路でしたし、家族は当然、僕もそうなるだろうと都合良く考えていたはずです。『竹工芸の道に進む』などと漏らしても良いことは一つもないと分かり切っていたので、就職活動をしていると見せかけつつ竹工芸のことはギリギリまで秘密にしました。家を借りたことも含めてすべて事後報告です(笑)」

初田さんの決意は堅いものでした。

その後は、週の5日間をアルバイトに費やし、週末に師匠の元へ通う生活が始まります。

しかしこれが、初田さんにとっての「トンネルのはじまり」でした。

 

闇の中を方向も分からず走り続けた「暗黒時代」

 

 

「大学を卒業してすぐの頃は、フルタイムでアルバイトをして、定時になったらすぐにタイムカードを切って退社し、直帰して竹工芸の自主練をしていました。しかしそんな生活が2年経った時、このペースでは良い物を作れるようにはならないなと危機感を抱きはじめました。そこで、さらに半年ほど貯金をしてアルバイトを辞め、技術の習得と並行して自分の作品づくりをするように。その1年でかなり力がつきましたが、金銭的にも力尽きました。」

作品をつくったからと言って、すぐにお金に換えられるほど甘くはありません。アルバイトを再開し、ふたたび二足のわらじの生活を続けながら、竹工家としての道を模索しますが、実はここからがさらに深く暗いトンネルとなります。

竹細工職人や竹工芸家を目指すには、まず九州にある職業訓練校や京都の専門学校に通うのがふつうで、そうした中で同業のつながりを作る機会もあります。しかし、大学在学中から師匠のもとで竹工芸を学び始めた初田さんの周りにいたのは、サラリーマンとして企業で働く友人たちばかりでした。

「友達の結婚式などで学生時代の仲間と再会して、お互いの近況報告をし合うと、『お前、人生を舐めてるのか?』なんて言われることもありました(笑)僕のいたコミュニティの中では異質な進路でしたし、何か言われるたびに笑顔で対応しつつも、やはり引け目を感じることは多かったです。しかも、年を重ねるほどに彼らと差がついていると感じるので、いっそう暗い気持ちになりました。」

 

 

「一方で、竹工芸の世界で接する先輩といえば、親ほど離れた年齢の方ばかりでしたし、繰り返し伺うお話によれば良き時代はすでに終わったそうで『竹工芸では食えないから、趣味程度にしておいたほうがいい』と必ず言われました。あえて厳しめに話して私の本気度を試すとかではなく、本音から仰っているようで、当時はポジティブな話題を耳にする機会が周囲にはありませんでした。あらゆる面で真っ暗です。」

それでもものづくりに励む初田さんを心配して、学生時代からの友人たちはときに助言をしてくれたそうです。

「やり方が悪いんじゃないか。今は自分から発信できる時代なんだから、もっとWEBでの発信を活用すれば。」

しかし、初田さんはそんな友人の意見に反発します。

「本物のつくり手は淡々と良いものを作り続けていれば周りが価値を認めてくれるものだから、インターネットなどで自分から発信するなんて邪道だ、と信じ込んで無視していました。でもね、そんなことを頑固に考えているうちに、師匠がいつの間にかお店のホームページを作っていたんですよ(笑)あの頃の僕は、勝手に作り上げた『偶像』で自分自身を縛っていたのかもしれませんし、どこか心も閉じていましたね。」

 

 

「はじめの10年は、長いトンネルに似ていたなと思うんです。例え真っ暗なトンネルでも安心して走れるのは、その先に出口が必ずあると信じられるからですよね。でも実際に闇の中にいたの僕には、出口がちゃんとあるのか分からなかった。周りの助言に耳を傾けることができず、一人で闇夜をあてもなく走っているような状態でした。」

 

──暗黒と迷走。

初田さんはかつて過ごしてきた日々をそう呼びます。

 

このままでいいのか?一歩踏み出して流れが大きく変わった

 

 

そんな初田さんが一歩を踏み出すきっかけとなったのが、2011年3月11日に起きた東日本大震災でした。

「あのとき、もし今の自分のままで人生が終わるとしたら…。と初めて真剣に考えたんです。それまでは、世間や家族に対する見栄や遠慮のようなものが邪魔をして、自分からアクションを起こして来なかったのですが、これじゃあどうしようもないなと。その時に、友人から厳しくも背中を押してくれるひと言をもらったことが印象に残っています。」

『君は今まで特に大したことを成し遂げてきたわけじゃないんだから、仮に失敗しても何ともないだろ』

「なかなか厳しいひと言でしたけど、その通りだったんですよ。あえてはっきり言ってもらって、吹っ切れた部分もありました。」

一念発起した初田さんは、大学卒業ぶりに世田谷の実家に拠点を戻すことに。

「実家を工房として使うなど甘いと考えていたのですが……よく考えると、家業でものづくりをしている人は、技術はもとより工房や道具、素材などを先代から引き継いでいる場合が多いですよね。ゼロからスタートする立場の自分が妙な見栄を張る必要はないんだなと気付いたんです。祖父母の使っていた部屋がずっと空いていたので、そこを整理して活用することにしました。」

 

 

地元に戻って来ると、まずは馴染みの街ならではのつながりを活かす方法を考えた初田さん。そして、2012年の秋、近所の美容室を会場に、自身で企画した展示を開催するに至りました。

「あえてギャラリーではない場所で、中秋の夜に3時間だけの展示をしたんです。3時間とはいえ全力で準備をして。当日はまさかの台風直撃で、ほとんど人は来なかったんですが……(笑)それでも豪雨の中を来てくださった人はいたし、やればできるという自信を得たのが大きなことです。」

これが引き金となり、初田さんの発表の場はどんどん増えていきました。

「自分が動いたことで、以前よりお世話になっていた美術ギャラリーから『うちで個展を』と声をかけていただきました。雑誌や書籍で自分の作品を取り上げていただく機会がだんだんと増えてきた時期でもあります。10年で積み重なってきたものと自分の動きとが、リンクして回りはじめたのかも知れません。」

 

初田さんの作る竹籠。文庫本などを入れて読書散歩にぴったりです

 

師匠の竹工芸の作品に感動してから、十数年後。2016年の夏には、初田さんの作品が、オーストラリアにあるヴィクトリア国立美術館での半年間に及ぶ企画展『Bamboo; Tradition in contemporary form』に出品され、同美術館の収蔵品ともなりました。

初田さんの長いトンネルの出口は意外にも、一歩を踏み出したすぐ先に待ち構えていたのかもしれません。
友人から進められたWEBでの発信も、今では日常的な習慣に。

ブログに綴られるつくり手としての初田さんの竹工芸への想いやこだわりは、使い手の理解を深め、ファンを増やすのにも一役買っています。

 

「道」を作る。下積みを経て気付いたつくり手としての在り方

 

 

「何に関しても『一人前になるには最低10年かかる』って、よく言われますよね。トンネルの先に光を見るまでの時間も10年でした。10年でスタートライン、ようやく道に立ったという感覚です。」 

ものづくりや伝統工芸の取材をさせて頂く中で、キーワードとして語られる「10年」という月日。

決して短いとはいえない時を経て、初田さんが見出したものづくりの在り方は、作家に偏りすぎるでもなく、かと言って安価な商品をつくるのでもないバランスの取れた方法でした。

売るとなると数十万円にもなる精巧な竹工芸の作品をギャラリーで発表する傍ら、日常使いできる「菓子切り」などを信頼するお店で日用品として販売しています。

 

煤竹を丁寧に削って作る菓子切り『月雲』。ささやかな贈り物にも最適です

 

初田さんは、人気の菓子切りについて、ブログでこのように綴っています。

 

「ささのは」という名の菓子切りを削るようになって、五年以上が経ちます。三年半ほど前からは千本という目標を立て、お渡しをするたび、台紙に番号を押印しつづけてきました。この夏、千本の道を通過して、いまはその先を歩みだしたところ。

三年半前にはじめの「1」を押印したときと、いまの自分とはずいぶんちがうような気がします。もう三年半を生きると、わたしは四十代を迎えているはずですが、その時にはまたちがう自分になっているわたしが、何をしているのかがたのしみです。

 

現在の初田さんは、これらの作品を自分で届けることから、信頼するお店を通じての販売にシフト。お店ごとの流儀と届け方に「委ねる」ことで何が生まれるのか、道具の果たす意味合いをまた新しくすることを考えているそうです。

作品としての竹工芸の他に、より手に取りやすい品も作ることで、多様な形でのやりがいを感じられるようになった初田さん。

これからは、さらに「道を作る」ことを大事にしたいといいます。

「竹工芸を始めたときは、自分の人生が豊かになると思ってこの世界に入ったはずでした。しかしいつの間にか、勝手に妄想した『竹工芸の道』というものに自分を縛り付けて、気づかぬうちに自分の生きる道を見失ってしまいました。」

伝統工芸という四文字の持つ重みを大事にするあまり、自らの道へ一歩を踏み出すことができなかったのです。

 

 

「本当は一本線の正しい道があるわけではないんですよね。とはいえ何に関しても『道筋』のようなものは確かにあって、それに沿ってみたり外れてみたりしながら徐々に前へ進んでゆくような。子どもの頃に塀の上とか学校の中の入っちゃいけないところを歩きたくなったように、時にはあえて道や時代から脱線することで、新たな発見があるものです。今では消えかかっている廃道を探したり、けもの道を踏分けたり、ときには航路を選ぶのも良いかもしれません。忘れられた道を発掘しつつ整える、そんな感覚があります。」

 

東京の竹工家として作る

 

10年の時間の先に、自らの「道」を歩み始めた初田さんの世界観は、若い世代にも着々とファンを増やしています。

2016年9月に桜上水の『メガネコーヒー』で行った個展『3時の港』もそのひとつ。

 

フライヤーや購入した商品を入れる袋からも、世界観とセンスが窺えます。

 

『メガネコーヒー』は、普段から初田さんの行きつけのお店です。
店主の方とのお話から実現したこの展示会は、コーヒー目当てにふらりと立ち寄った人々も竹工芸を手に取る機会になりました。

そして、初田さんがこれから目指すのは、東京の作家として竹工芸の道を作ることです。

 

 

「現代の東京は、竹工芸はもとより、ものづくりの場としての機能が忘れられています。現代の東京であっても、ものづくりを仕事にできる、その道を蘇らせたいですし、東京生まれの竹を作品として形にする夢もあります。」

初田さんと同じ、東京生まれ、東京育ちの竹から生まれる作品は、どんな表情を魅せてくれるのでしょう。

 

ごくありふれた環境で育ち「伝統工芸」の道を選ぶということ

 

伝統工芸やものづくりに関心を持つ若い世代はいても、一人前になるまでの長い下積み時代を生き抜くことが出来ず、せっかく技術がある程度身についてきた頃に諦めてしまうケースも少なくないとよく聞きます。

そんな現状において、ごく普通の大学生から竹工家になった初田さんの生き方は、伝統工芸を次世代につなぐ、ひとつの例とも捉えられるのではないでしょうか。

自らの生き方を模索しつつも、伝統工芸に敬意を表する「つくり手」であることを大事にする初田さん。実直に鍛錬を重ねたからこそ生まれる作品に、その展示方法や作品の届け方で「イマ」のエッセンスを加える手法は、初田さんが苦難の末に導き出した「道」なのかもしれません。

そして、初田さん自身がこれからものづくりを志す若者たちの下積みの「トンネル」の先で光となり、出口を指し示す存在となりえるのではないでしょうか。

その姿は、次世代の日本のひとつの職人像でした。

 

 

▼初田さんのWEBサイトはこちら

https://www.toruhatsuta.com

 


作者情報(一覧を見る)
shiori
山越 栞

フリーランスライター・編集者
「日本のかっこいいところを見つけて、もっと多くの人に伝えたい」そんな想いで執筆・編集などに携わる。10代から始めた茶道は現在も勉強中。