皆さんは日本の色といえば何色を想像しますか。

「ジャパン・ブルー」
かつて、藍染めの色はこう伝えられていました。

明治政府は当時の先進国であるフランス・イギリス・アメリカなどの工業社会の仕組みを模倣すべく、各分野のスペシャリストを日本に招き、教えを乞いました。
日本を訪れたこれらの渡来人の多くが、口をそろえて日本の国の特徴を「青」で表現したと言います。

日本国旗からは赤や白の色が連想されます。しかし考えてみれば、現代でも、サッカーの日本代表にも見られる様に青色も日本の色として認識している人も多いのではないでしょうか。

僕たちが青に日本を感じることと、藍染めには深く関係がありそうです。

220年以上前(江戸時代寛政初期1789年)に栃木県益子町に創業した日下田藍染工房の9代目。県の無形文化財でもある日下田正さんにお話を聞くと、次第に日本の「青色」の輪郭が見えてきました。

もくじ

_MG_9582【益子の玄関口に構える工房。何とも言えない風情が周囲に立ちこめる】

日本の色、藍染めとは

_MG_1556【藍染の甕に白い布を浸すと…】

他人の為の仕事に忙しく、自分の事にまで手が回らず。そんな様子のことを 「紺屋(こうや)の白袴(しろばかま)」と言います。
お客さんの衣服には藍染めを一生懸命に施しているのに、自分たちの袴(はかま)は染めずに白いまんま…そんなエピソードがこの言葉の由来だそうです。
ここでの紺屋(こんや)とはつまり藍染めの職人さんのことです。

藍染めーーー言葉ではよく聞くけれど、その諸作業の実態をあまり知らないという方も多いはず。

藍染めとは、植物であるタデ科の藍(あい)を使用した染色方法のこと。
この藍の中に含まれる『インディゴ』と呼ばれる成分により、染色をする方法です。

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_MG_9770【この甕(かめ)の中の液体が、ジャパンブルーの源】

藍染めの歴史はとても古く、国内では奈良時代前後、世界では紀元前2000年に建てられたエジプトのピラミッドから藍染めが出土した例もあるそうです。

僕たち日本人の先祖にとって、藍染めがいかに身近であったかを表す有名な言葉があります。
明治22年、来日した英国人文学者のラフカディオ・ハーンの言葉です。

「この国は、大気全体が心もち青味を帯びて、異常なほど澄み渡っている。青い屋根の下の家も小さく、青い暖簾(のれん)をさげた店も小さく、青いきものを着て笑っている人も小さいのだった」

日本の美しい原風景が頭に浮かんで来るようです。

その藍染めが国内で飛躍的に進歩、普及したのは江戸時代のこと。

今の日本ではとても想像できない、町中に藍染めが溢れた時代があったのです。

_MG_9641【博識の日下田正さん。お話には確かな重みを感じざるを得ませんでした】

藍染めが普及した理由について日下田さんは「江戸時代は400年に渡り徳川政権の平和が続いた時代で、職人さんが安心して手仕事に磨きをかけることが出来たことも大きいのではないでしょうか?」
と話します。

当時、木綿(今ではコットンのこと)が一般に流通する様になり、庶民の手に行き渡った事も、藍染が広まった理由の一つとして挙げられます。

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江戸中期から明治初期にかけては、日本のなんと8割程度の衣類は藍で染められ、どこの町にも紺屋があるほど藍染めが盛んだったそうです。自分で織った衣類を紺屋にもって行き、染めてもらう。それが一般人の感覚でした。

全国の紺屋の中でも江戸の職人技術は現代でも驚く程で、計17色にもなる藍染の色を、職人はまさに五感で判断し、染め分けていたそうです。

この栃木県内だけでも200〜300軒の紺屋が軒を連ねていたそうです。
現在はそんな日本文化の象徴でもあった紺屋も県内では日下田さんの工房を合わせ2軒のみ。

藍染めは、徐々に大量消費の時代の波に押され、気付けば化学染料や合成染料に取って代わられ、衰退の道を辿ります。

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日本人として知っておきたい藍染めの工程のはなし

藍染めは、藍の植物内に存在する『インディゴ』と呼ばれる物質を、空気と反応させて青色を発色させることで染めている事は前述の通りです。

まず、藍染めには「すくも」という原料が欠かせません。

すくもは大量の藍の葉を乾燥させ、発酵分解したもの。

_MG_1534【藍の葉っぱ。これを乾燥させてすくもを作る。】

実は今、このすくもを作れる職人さんもかなり減っているんです。
現在国内のほとんどのすくもは徳島県で作られていて、徳島でもこのすくもを作ることが出来る職人さん=藍師(あいし)は5名しかいないそうです。

※徳島で藍師が多い理由は、藍を育てるのに水と肥沃な土壌が必要だったため。徳島は吉野川が中央を流れていて、過去は吉野川の氾濫が多く肥沃な土壌があり、さらに、漁港も多かったことから藍の肥料となる魚粕も豊富でした。

_MG_9742【これが藍染めの原料、すくもです】

この貴重なすくもはどのように使われているのか。
まず、すくもの状態では染料が布に染み込むことはありません。
すくもにアルカリ性の灰汁、お酒や小麦の糠(ぬか)を加えて加温します。
この一連の作業のことを藍建て(あいだて)と呼び、これが紺屋の職人技術の一つです。

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↑この写真の藍甕(あいがめ)は4つをひとつの単位として、「ひとつぼ」と呼びます。

ひとつぼの中心には火床(ひどこ)と呼ばれる穴があり、気温に合わせて火を燃して、発酵に必要な30℃前後を保ちます。

このひとつぼを藍建てすることに実に2週間程を要します。

染色液は常に発酵が必要なので、1日に1回、職人さんが竹の竿をかき混ぜます。

こうしてようやくできた染色液に、用意した糸や布を浸け、日本の青色の息を吹き込んでいくのです。

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布は数分間浸け込んだ後に引き上げられ、空気にさらすことを数回。

一番濃い藍色にするには、この浸け込む工程を10回程度繰り返します。

必要な色に染まった後は、一晩ほど水に浸けて洗い流し、天日で干します。

_MG_1608【しぼり染で水洗いをしたばかりの生地。】

この藍染めの工程である一連の作業は、理屈通りにいかない事も多く、経験がものを言う世界。
すくもを作る藍師と藍染めの職人さん、確かな手仕事を経て初めて、美しい藍色が僕たちの目の前に現われます。

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先の写真でもご紹介した絞り染以外にも、染色の方法はあります。

日下田藍染工房では、糊(のり)で模様を描き、糊の部分だけ染まらないようにする、型染めと呼ばれる技法で染色も行っています。

型染めの型紙は、和紙を柿渋(かきしぶ)で強くした物を使用します。
100年以上も前の型紙が現在でも現役で使用されています。
この模様の緻密さには今の時代でも驚かされます。
手作業で作っていたのですから、僕たちの先祖の手先の器用さは本物です。

とても100年前のものとは思えない、精密なデザインを型取ったものがたくさん揃っています。

_MG_9688ある外国人はこれをコンピューターだ!と疑ったそうです。もちろん当時コンピューター等はありません。】

貴重な資料や道具で溢れる日下田藍染工房。
この染場の72個もの藍甕(あいがめ)は、建物も含め、江戸時代から震災にも耐えて、ほとんど変わることなく現在に残っているそうです。

_MG_9716【まだ作業前の工房の様子。自然の光が工房内をやわらかく照らす】

江戸時代の甕(かめ)は、並巾(なみはば)と呼ばれる約36センチがの和服の生地を染めることを前提に考えて作られているため、現在の洋服地の約91センチは入りません。
多くの紺屋では明治の洋服が主流になるタイミングで、甕を大きなものに作り替えたところが多いことから、並幅である日下田さんのような染場は珍しい部類に属する様です。

工房のわらぶき屋根の建物も、日本が誇る栃木県の重要文化財に指定されています。益子の街の玄関口に佇む日下田藍染工房ですが、この益子の街にはいったいどんな歴史があるのでしょうか。

益子の街の歴史とは?濱田庄司さんとの繋がり

「私の先祖の誰かに、そろばん勘定が出来ない人がいたのかも知れないですね。『この仕事は100年は赤字が続くなぁ』と先祖の誰かが言っていたという話も伝わっていますよ」

笑いながら話す九代目の日下田さんですが、日下田さん自身がこの厳しい時代に藍染めを残す決断をしたのにも理由があったそうです。

焼き物で有名な益子。明治の頃までは生活雑貨を作る村でした。

そこにイギリスで「アーツ・アンド・クラフツ・ムーブメント」のまっただ中で焼き物制作をしていた、陶芸家の濱田庄司さんが移り住みます

※アーツ・アンド・クラフツ・ムーブメント・・・現在のロハスの先駆けともいえる運動で、田舎で健康的な暮らしをしながらものづくりを続ける運動のこと

※濱田庄司・・・陶芸家。第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝)

濱田さんが近代化や産業化の流れの激しい時代だからこそ、日本固有の工芸の価値を認識するために、日用品を作る職人(家具・木工・竹籠・藍染めなど)を集め「益子を手仕事の町にしよう」と勉強会を始めたのがここ益子の現在の文化の発祥と言えます。

_MG_9580【まだ朝早い益子の街。空気も澄み切っています】

その濱田庄司さんから派生した集いの中には日下田さんのお父さんも。
お父さんご自身も『藍染めは明治いっぱいの仕事』という思いはあったものの、時代の流れに負けず藍染めを残す方法を模索していました。

今となっては歴史的な有名人と膝を交えて語り合った日々…この技術を残さなければいけない、そんな特別な「何か」が日下田さんのお父さんにもあったのかもしれません。

9代目、日下田藍染工房を守る決意をした日

お話を伺った日下田さん自身も、若かりし頃には、藍染めとは別のことに興味があったそうです。
自分の家業を継ぐ意志はなく、映画が好きなどこにでもいる少年でした。

ところが日下田さんはある日、工房の甕に美しい朝日が差し込む光景を目にします。
「そこに、なんとも言えない神聖さを感じました。」そう日下田さんは当時を振り返ります。

「自分の生まれた役割はこれなんだ、ここにあるんだ」そう決意を新たにしたそうです。

この18歳のある朝に、日下田さんは先代の意思を継ぎ、藍染めを次の時代に繋げるべく、活動を開始します。

日下田さんは先代の想いと伝統を守るため、藍染め×織物 の新しい視点で考え「益子木綿」と呼ぶ、産地で全て完結する木綿織物づくりも自らスタートし、積極的に活動を続けます。

藍染工房九代目に聞く、伝統産業のこれからの課題

若い世代でも、藍染めの魅力に魅せられ、自ら発信する方も多いこの平成の時代。
日下田さんの元にも多くの若手が訪れるにもかかわらず、この地で伝統を継承することは簡単ではないと日下田さんは言います。

経済的なことを無視して、日本の伝統文化を残すことなど出来ません。後継者は育てたいですし、『紺屋になりたい』という若い人を応援したい気持ちもあります。しかし、そんな方が、3〜5年で独立して自活できるならいいのですが、独立させる事が出来る保証がないので、他の道をすすめています。」

「しかし、今後はどうにか安心して藍染の仕事に打ち込める様な環境をもっと作って行かなければなりません。」

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藍染めの原材料であるすくもも、藍染めの技術も、共にいま日本から失われて行こうとする技術です。

日下田さんが光輝く工房を見て神聖さを感じ取ったあの時抱いたのと近い感覚を、実際にこの工房を訪れれば、日本人なら誰でも感じるのではないでしょうか。

藁ぶき屋根に抱かれ重厚にそこに構える72個もの甕たち。
燦然と差し込む陽の光に照らされる藍染め作品のギャラリー。
悠久の時を経て使い古された道具の数々。

この場所が、僕たち日本人にとってどこか懐かしく、神聖な場所であることに疑いはありません。

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作者情報(一覧を見る)
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大滝 洋之

Brightlogg,Inc.代表
歴史と伝統に敬意をはらい、現代の価値観で再解釈し、未来に繋げることを目指す。やりたいことは盛りだくさん。都内を中心に全国を巡りセコリ百景を運営する。